今日の新聞の番組欄を見てましたら、TBS番組「金スマ」にディーン・フジオカさんが出演されるとなっていました。

台湾で活躍していた「ディーン・フジオカ」さんが、NHKドラマ「朝が来た」の五代友厚役から日本でも一気にブレークしましたね。 彼は、れっきとした日本人なんですが、顔だちは爽やかで、今までの日本人俳優さんにはあまりいなかったタイプではないでしょうか。 それに、彼はけっこうマルチな才能をお持ちで、活躍の範囲が広いですね。

台湾の最近の話題では、民主進歩党の蔡英文氏が新しい台湾総統になりました。
その台湾は日本との関係がとっても深い国ですね。

台湾の日本統治は、日清戦争の勝利の結果、1895年(明治28年)4月17日、下関条約によって台湾が清朝(当時の中国)から日本に割譲されました。 統治は、第二次世界大戦の敗戦の結果、ポツダム宣言によって台湾が日本から中華民国に編入された1945年(昭和20年)10月25日までの、約50年間続きました。

彼の作品と台湾について書いてみます。

 

日本人「ディーン・フジオカ」と「台湾」

公式サイトからプロフィールを見てみますと、

Official Siteより
名前 DEAN FUJIOKA / 藤岡靛  生年月日:1980年08月19日  出身地:福島県 / 日本  身長:180cm  言語:日本語 / 英語 / 中国語 / バハサインドネシア語

日本、福島県生まれ。高校卒業後アメリカ、シアトルの大学へ留学。 大学卒業後香港へ渡りモデルとして活躍、映画「八月の物語(2005年)」の主演に抜擢され俳優デビューを果たす。その後台湾に拠点を移しドラマ、映画、TVCF等に出演するなど中華圏エンターテイメントの新星として旋風を起こす。また、自ら作詞・作曲・プロデュースを手がける音楽制作をインドネシアで行うなど、アジアの縦軸を中心に語学力と多方面の才能を活かしボーダレスに活動中。

現在35才、見た目は20代ですが、いい歳の取り方してると思います。今までの経験が自信となっていい顔してますね。

2005年に俳優デビューしてから台湾で活動し、撮影準備に足かけ2年をかけ2011年に制作された『夢の向こう側~ROAD LESS TRAVELED~』の出演でミュージシャンとしても花が咲きました。

音楽に目覚めた『夢の向こう側~ROAD LESS TRAVELED~』への出演

この作品のストーリーは

アメリカで知り合った人に台湾でプロデューサーを紹介すると言われ、夢を叶えるためにギターを片手に台湾にやってきた若者ジミーが、トラブルの中で台湾で活動するインディーズロックバンド「SMASH」のメンバーと知り合い、いろいろな経験の中からスターになるまでの成長を描いています。スターに登り詰めてからの成長がより友情と絆を引き立てています。終盤は重い感じを受けるストーリーではありますが、笑いと感動もあり温かみのある青春ストーリーです。

メンバーの1人であるドラム役のクリス・リンは俳優として活躍しながらバイオリンの名手であり、なにげないシーンでバイオリンを手にしていたり、ライブではバイオリンを演奏するシーンもあります。友情をテーマにしていますがクリスが演じるジェイソンは、劇中ではバンドだけではなく家族との関係にも触れており、ラストのシーンはバンドがジェイソンに与えたものの大きさを痛感します。この5人がロックスターの成功を夢見ながら友情を描くとなると普段の仲の良さがよりリアリティを表現しており、出演以外に制作会社を立ち上げた3人は映画の撮影にあたりプロデューサーも兼任しているので、ビジネスと言う面でも台湾の音楽業界を反映したストーリーはリアルな仕上がりとなっているように思います。

この映画の始まりはジミー・ハン演じるジョーが音楽で夢を叶えるためにギターを片手にアメリカから台湾に渡ってきたところから始まります。

この時に「このギターが僕らを結びつけたと言える」(字幕より)というジョーの意味深なナレーションのセリフがとても印象的なのですが、この後のSMASHとの出会いによって観ている側では一度は忘れてしまいます。

始まりは展開が早く、SMASHのボーカルマイクがギターを持っているジョーをギター泥棒と勘違いして追いかけ捕まえてしまうのですが、それが誤解だとわかりメンバーはジョーを心配し、ジョーはギターが無事であるから大丈夫だと伝え、台湾に来た理由をSMASHのメンバーに話しはじめます。

この時に「ギターは高いものではないが大切なギターである」ことを伝えます。SMASHはギターを募集していたこともあり、ギターがきっかけとなってジョーはSMASHに加入。

それ以降しばらくはストーリーの中で演奏以外にギターに触れることはないのですが、中盤に差し掛かったところで始まりと同じようにマイクの勘違い(誤解)からジョーと衝突が起き、マイクは気持ちが抑えきれずジョーに手をだしてしまいます。

その際にギターが壊れてしまうのですが、ギターが壊れてしまったことでマイクとジョーの関係性もうまくいかなくなってしまいます。

音楽をやる人にとって楽器が大切なものであるようにバンドの仲間もそれ以上の存在であることは、マイクもジョーもわかっているところではありますがなかなかお互いの性格上うまくいかないまま時間だけが過ぎてしまうのです。

そんな中、SMASHには更なる事態が起きてしまいます。

終盤では友情や5人の固い絆が結びつきメンバーそれぞれの思いが1つとなって感動を呼ぶのですが、ラストにはギターが結びつけたものの大きさに更なる感動を覚えます。
夢の向こう側でギターが結びつける友情と絆とは…。
(http://www.bw-movie.jp/より抜粋)

音楽でも花開く

この映画でSMASHが演奏する曲のほとんどは映画にジョー役とて出演しているジミー・ハンが手掛けています。 ジミーはもともと台湾のボーカルグループ「TENSION」のリーダーで歌手活動をしながらPVや俳優、監督をするなどマルチに活躍しています。
さらにSMASHのもう一人のギタリスト・イー役の「ディーン・フジオカ」がここで曲作りに参加しています。フジオカは小さいころから音楽をやっていて、俳優になる前はバンドやギターをやっていたとのこと。
映画撮影後には自分のアルバム制作の準備を始め曲作りやレコーディングを行っています。この作品にもいっぱい曲を作ったようですが、実際に劇中では何曲か使われているようです。
ディーンは「作った曲の中でジミーに使ってもらった感じですね」とコメントしています。
ジミーは最初ディーンが音楽をできるとは知らず、バンドメンバーに決めた時に「楽器は何ができるの?」と聞いたことでわかったようですが、「この人は何でもできる本当に全部、プロですよ。何でもできるんです」と絶賛。
ここでもマルチな才能が表にでたのですね。

 

クールガイの境地『ハーバー・クライシス<湾岸危機>Black & White Episode 1』への出演

2009年台湾で大ヒットドラマ(年間視聴率第1位)となった『ブラック&ホワイト』原題は『痞子英雄』。

この映画はとにかく豪華でハリウッド作品に負けないぐらいの大迫力でノンストップアクション作品です。「西武警察」×「相棒」といった感じで、人気のツボがしっかり詰まっています。相棒「相棒」も「西武警察」も日本で大ヒットしたドラマです。

主演のマーク・チャオのノースタントの出演シーンもかなり見どころ高く、ブルース・ウィルス演じるジョン・マクレーンの「ダイ・ハード」並みのスタントですね。ブルース・ウィルスとマーク・チャオの大きな違いは、やはりマーク・チャオのほうがイケメン度数が高いところでしょう。イケメンといえば、映画の中で情報局の捜査官を演じた「ディーン・フジオカ」も日本人として、かな~りイケメン値が高いと評判になりました。

映画のロケ地となった高雄はどんな都市?!

陸・海・空といろんなところでアクション三昧の【ハーバー・クライシス<湾岸危機>Black & White Episode 1】が撮影されたロケ地は、台湾第2の都市高雄です。
高雄(たかお)を中国読みするとカオシュンですが、17世紀に打狗(ターカウ)という小さな村から発展して、都市へと大きく成長していきました。台湾の首都台北には本省人と呼ばれる日本が統治していた時代から住んでいた人とその子孫が多い土地ですが、高雄は外省人と呼ばれる中国から台湾へ移民してきた人と子孫が多い都市ということもあって、台湾人としてのアイデンティティーへの志向が強い都市でもあります。

歴史を知りましょう~

17世紀に打狗(ターカウ)という小さな村から発展して、都市へと成長した高雄ですが、打狗(ターカウ)と言う名前の由来は、平埔族マカタウ族の集落タアカウの名前からの由来です。ターカウという言葉の意味は、マカタウ族の言語で「竹林」を意味する言葉でした。1724年にオランダはターカウ(現:高雄)の場所に砦を築いていますが、孫文そして蒋介石とならぶ「三人の国神」の一人として尊敬されている鄭成功(ていせいこう)によってオランダは駆逐されます。そして1664年に万年州(萬年州)が設置されました。

1684年に高雄は清の統治が開始されて、台湾府の一部として鳳山県が設けられ県治が興隆荘(現:左営)に設けられています。1858年の天津条約で、清朝が天津でロシア・アメリカ・イギリス・フランスの4国との条約を結んでいますが、この条約で清は台湾島に複数の開港地を設けることを約束させられることになります。そして開港地のひとつが打狗港となり1864年に開港し、それ以降外国貿易で栄え始めることとなります。

下関条約で1895年に台湾が日本に割譲されると、日本は海軍の南方方面での補給港を確保するために打狗開発を進めていきました。地名に関して1920年9月の地方制度実施で、「打狗」という文字が卑俗だとして、それまで台湾人にとって地名と考えられていた民雄(旧:「打猫」)という釣り合いも考慮して、台湾総督府によって打狗(ターカウ)と発音の近い内地の名所の高雄(たかお:カオシュン)に改称されました。そして高雄州に帰属するようになりました。1924年に高雄郡が廃止されて、高雄街は「高雄市」に昇格して高雄州に直属されることになります。

日本が1945年に無条件降伏したことで、台湾は中華民国が接収することになったため、高雄市は省轄市とされて台湾省に帰属しています。1966年から楠梓区で加工輸出区が開業して以後、加工貿易の工業団地や重化学工業のコンビナートが集積する台湾随一の工業都市となりました。1979年7月1日に行政院は、高雄市を直轄市に昇格させることを決定したため、前鎮区に隣接する高雄県小港郷を統合しました。

2010年12月25日に高雄県を合併したことで、高雄市は市としては最も広い直轄市となっています。

日本統治時代はどうだったのか?

日本の統治時代の評価は、立場の違いによっていくつかに分かれます。

台湾の人の評価もいろいろとありますが、当時の日本人もどのように統治していくか迷ったようです。

内務省の官僚だった後藤新平が民政長官に抜擢され、台湾の硬軟双方を折衷した政策で台湾統治を進めていきます。また1902年末に起こった抗日運動を制圧した後は、台湾総督府は日本の内地法を超越した存在として、『特別統治主義』を採用することとなりました。

特別統治主義とは、英国政府の植民地政策を採用し、日本内地の外に存在する植民地として内地法を適用せず、独立した特殊な方式により統治するというものです。文化・文明的に立ち遅れている植民地の急な同化は困難であると後藤は考えていました。後藤は台湾の社会風俗などの調査を行い、その結果をもとに政策を決め、ゆっくりと同化の方法を模索するという統治方針を採りました。

一方、原敬などは、台湾を内地の一部とし、内地法を適用する『内地延長主義』を提唱しました。フランスの植民地思想に影響を受けた原は、人種・文化が類似する台湾は日本と同化することが可能であると主張しました。統治初期は台湾統治に2種類の方針が存在していたのですね。

台湾総督は六三法により「特別立法権」が与えられ、立法、行政、司法、軍事を中央集権化した存在となりました。これらの強力な統治権は台湾での抗日運動を鎮圧し、台湾の社会と治安の安定に寄与したのです。

また、当時流行していたアヘンを撲滅すべく、吸引を免許制にしたり、アヘンを専売制にして段階的に税を上げ、新規のアヘン免許を発行しないことなどで、アヘンという麻薬を追放することにも成功しました。

そのため現在の台湾の教育・民生・軍事・経済の基盤は、

  1. 当時の日本によって建設されたものが基礎となっていると主張する意見(李登輝など)
  2. 近代化の中の日本の役割を過大評価することは植民地統治を正当化することだと反発する意見
  3. 台湾は日本への農作物供給地として農業を中心に発展させられたため工業発展に遅れたと主張する意見
  4. 日本商人の搾取によって富が奪われたとする意見(図解台湾史、台湾歴史図説)
1.と2.の意見はよく聞くところですが、3.と4.の意見は、個人的にはちょっと偏り過ぎだなと思います。
どちらにせよ、統治時代の50年は、台湾の国民と台湾に住みかかわった日本人たちの生きる方向と人生を大きく左右したのですから、歴史の検証はしっかり押さえておくべきです。

第一次世界大戦(1914~1918年)が終わり国際情勢が変化する中、日本による台湾統治政策も変化してきました。

1919年、台湾総督に就任した田健治郎は初の文官出身者でした。田は赴任する前に当時首相であった原と協議し、台湾での同化政策の推進が基本方針と確認します。就任した10月にその方針を発表します。同化政策とは、内地延長主義であり、台湾民衆を完全な日本国民とし、国家国民としての観念を涵養するものと田は述べています。

この政策の変化から台湾の施策は大きく舵を切ることになり、その後20年続きました。具体的な政策としては、地方自治を拡大するための総督府評議会の設置、日台共学制度及び共婚法の公布、笞刑の撤廃、日本語学習の整備などその同化を促進し、台湾人への差別を減少させるための政策を実現しました。また後藤時代の政策を改め、鉄道や水利事業などへの積極的な関与を行っていきました。

1930年、日本統治下の台湾で起きた壮絶な事件を映画化した「セデック・バレ」(2010年作品)にもディーン・フジオカは出演しています。

しかし、1937年の日中戦争勃発以降は、日本の戦争推進のための資源供給基地として台湾が重要視されることとなり、皇民化政策が推し進められることになります。皇民化運動とは、簡単にいえば台湾人のひとたちを日本人化させようとする運動でです。その背景には長引く戦争の結果、日本の人的資源が枯渇し、植民地に頼らざるをえなくなったという事情がありました。 これも戦争というものが招いたことなんですね。

1945年の終戦をもって台湾は中華民国に接収され、1951年のサンフランシスコ講和条約において日本は台湾の主権を放棄しました。

~ まとめ ~

台湾とゆかりのある日本人「ディーン・フジオカ」さん。

かつての日本人の多くの人たちが、その台湾と関わってきています。

戦争や植民地という評価の分かれる過去がありますが、日本と日本人の功罪を含め、台湾のアイデンティティーは決して侵されるべきものではなく守られるべきです。

台湾のみなさんがその過去と今の日本との未来をどう見据えていただけるかですね

「ディーン・フジオカ」さんの今後に期待します

 

台湾について、この続きをまた書きたいと思います。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

(Visited 201 times, 1 visits today)