6月の京都、西院から壬生へ、新選組ゆかりの地を訪ねて!
二十四節気でいう芒種(ぼうしゅ)に入りました。 芒(のぎ)を持った植物の種をまく頃という意味です。 これを過ぎると本格的な夏となる6月下旬の夏至(げし)までもうわずかです。
だんだんと蒸しばむ季節となってきましたね。
6月に入り、鴨川沿いの納涼床にとってはイイ季節となってきました。 三条河原から四条河原へかけて風情ある軒を並べています。
今回は、昔1年間のすみかであった西院から歩いて新選組ゆかりの地、壬生あたりを歩いてみました。
|新選組ゆかりの地を歩いてみる
新選組のことを知るには本を読むのが一番ですね。 幕末という時代ですから血なまぐさいことも含め、日本を危惧する若者と伝統を継承しようとする若者、志を持って臨む若者と時代に翻弄される若者たちがいます。
新しい時代を切り開き尊王攘夷に燃える幕末の志士たちと、旧来の秩序を継承し幕藩体制を堅持しようとした正義の志士たち、その両面を見なければこの時代は語れないでしょう。 新しい何かが生まれようとするときには膨大なエネルギーが必要であり、その裏には数々の想いや犠牲があったということを知らなければなりませんからね。
それにしても、1853年のペリー来航から1868年の明治元年までの15年間、そして1877年の西南戦争終結までを明治維新を含めると24年間。 たった24年で世の中の仕組をごろりと変えたわけですから、当時の若者のパワーは凄いとしかいいようがありません。 この時代の一面を新選組をとおしてさらに知ってみたいと思いました。
|新選組の本から学ぶ
新選組の本と言えば、
土方歳三をモデルにした司馬遼太郎氏の『燃えよ剣」や、
盛岡藩の脱藩浪士で新選組隊士の吉村貫一郎を題材とした浅田次郎氏の『壬生義士伝』が有名です。
司馬遼太郎氏の『新選組血風録』は短編の15話で構成されていますが、架空の隊士を主人公として土方や沖田にからませていますので史実としてはどうだろうかと、おもうんですね。 その点、子母澤寛氏の『新選組始末記』が聞き書きなので資料としてはもってこいだと思います。 最近ではフィクションも少し含まれているとも言われてますが、新選組を知るにはもってこいです。
個人的には佐藤健君主演の『るろうに剣心』のファンということで、浅田次郎氏の『一刀斎夢録』を読み直しました。 新選組で副長助勤、三番隊組長、撃剣師範をつとめた斎藤一が主人公。 タイトルの一刀斎は斎藤一を逆順に読んだものです。 大正に代わった直後に近衛師団の剣士に向かって語るという形式なのですが、ちょっとくどいくらいのこだわりようです。
実は、木内昇さんの『新選組 幕末の青嵐』をまだ読んでないんですね。 今回読んで壬生を尋ねようと思ったのですが。
それにしても土方歳三をモデルにした時代小説はホント多いです。
|それでは新選組を尋ねて出発です。
1年間お世話になった西院(阪急京都線)駅から歩きはじめます。
四条通りを東へしばらく歩いていくと、左手に日本写真印刷の本社があるのですが、そこの前庭ではのんびりと鳥たちがさえずっていました。 街の中なのにと思いながら粋な出迎えに頬も緩みます。
坊城通りを右に下ると、新選組ゆかりの地、昔で言う壬生村です。 八木邸は壬生梛ノ宮町、前川邸と新徳禅寺は壬生賀陽御所町、壬生寺は壬生梛ノ宮町となっています。 今から154年前の、この半径50mの範囲に隊士たちは息づいていたのですね。
私が尋ねた順番は最後に掲載していますが、ここではこれら施設が新選組の歴史に登場した順番に追ってみたいと思います。
1.新徳寺
新撰組の前身である「浪士組」にまつわる最初の大舞台となった場所として知られています。 江戸時代末期、庄内藩出身の志士・清河八郎は桜田門外の変に強い衝撃を受け、清河塾には幅広く憂国の士が集まりだしました。
その中には、幕臣の山岡鉄太郎(鉄舟)、薩摩藩の伊牟田尚平らがおり、清河を盟主として「虎尾の会」を結成しています。 清河は諸国を回って討幕運動を続け、九州では真木保臣や福岡藩士の平野国臣と接触しています。 過激な尊王攘夷派を江戸から追い出すための策だという説もありますが、清河は山岡、芹沢鴨、近藤勇、その他有名どころでいえば山南敬助・土方歳三・永倉新八・沖田総司ら後の新選組となる三番隊、他七番隊まで234名を率いて京都にのぼりました。 時は文久3年(1863年)2月のことです。
その夜、清河八郎が放ったここ新徳寺での大演説は有名です。 「我々が真に為すべきは、(上洛する将軍の警護ではなく)江戸に戻って攘夷運動に身を投ずることである」と。 しかし、清河の攘夷に反対した芹沢、近藤、土方らは反発し京都に残ろうとしました。 清河は、その熱弁にうたれた200名を手勢として翌日朝廷へ建白書を出し受理されます。 幕府は浪士組の動静に不安を抱き、清河ら一行を江戸へ呼び戻そうとします。 結局、清河は幕府の刺客によって現在の麻布十番で首を切られることになります。 清河の死後、幕府は浪士組を新徴組と改名し、庄内藩預かりとしました。
清河に反対した芹沢・近藤らは、議論が物別れとなって京都に残りましたが、京都守護職を務めていた会津藩預かりとなり「壬生浪士組」を名乗りました。 これが後に新選組の結成となるわけです。
2.旧前川邸
(現在の前川邸)
(旧前川邸の門がまえ)
壬生村に到着した浪士組は、各隊ごとに会所や寺、壬生の郷士宅へ分宿します。 この一つが前川家です。 現在は個人宅になっていて、これと言ってみるものは無いのですが、芹沢鴨を暗殺するさいにここから八木邸を見張っていたのかと想いをめぐらしました。 一応、中にある納屋みたいなところで新選組グッズを売ってます。
先ほどの新徳寺には鵜殿鳩翁(うどの きゅうおう)・清河八郎ら取締役や山本仙之助ら38人。 更寉寺には 根岸友山ら59人(24日に中村家へ移動)。 壬生村会所には村上俊五郎・柏尾馬之助ら10人。 南部家 には 10人。 中村家には30人。 四出井家には 30人。 浜崎家には 10人。 柳家 には12人。 八木家 には 近藤勇ら10人。 そして近隣農家に18人となっています。
芹沢や近藤が清河と袂(たもと)を分かち、新選組として会津藩預かりとなってからはここ「前川荘司邸」が文久3(1863)年から約2年間新選組の屯所となりました。
旧前川邸のHPによりますと、前川邸の屋敷の総坪数は443坪。家は平屋建てで、建坪が273坪。部屋は12間あり、146畳という広い家だったそうです。
当時、前川本家(京都油小路六角)は、掛屋として御所や所司代の公金の出納、奉行所の資金運用の仕事など、色々な公職を兼ねていたため、奉行所や所司代との密接なつながりがありました。
上洛する浪士組(後の新選組)の宿舎を選定するにあたり、市中情勢にも詳しく、役人の信頼も厚かったことから、前川本家が、その仕事を任されたそうです。 前川本家では、壬生の地が、京の町はずれにありながら、二条城に近いという点で、地理的条件にも合ったことから、自分の身内である前川荘司の屋敷を提供しました。
ここ前川邸では、隊士の山南敬助(やまなみ/さんなん けいすけ)が切腹しています。 山南は、近藤との他流試合のあと近藤の腕前や人柄に感服し近藤を慕うようになり、後の新選組幹部となる土方歳三・沖田総司・永倉新八らとともに試衛館に集っていた仲です。 同じく新選組に加わり、副長となり、文久4年(1864年)には筆頭局長の芹沢と副長の新見が粛清され、局長の近藤、副長の土方に次ぐ地位の総長に就きました。 人柄よく、心優しい温厚な性格から壬生の女性や子供たちだけではなく隊士たちからも慕われていたといいます。
しかし、手狭になった屯所を西本願寺に移すことを進めた近藤らは、勤王色が強い本願寺とゆかりのある長州藩にくさびを入れておく意味もあり、勤王の志が強い山南と意見が合わなくなったようです。 意見を取り上げてもらえない山南は新選組と袂をわかち江戸へ脱走を図りました。 追手の沖田に捕縛され、壬生に連れ戻された山南は、可愛がっていた沖田に敢えて介錯をゆだね、元治2年(1865年)2月23日に32歳で切腹しました。
今では毎年、新選組総長・山南敬助を偲んで「山南忌」がここ前川邸で開かれています。 今年は3月13日の日曜日に開催されたようです。
ところで平成16年(2004年)の大河ドラマ「新選組」では、「真田丸」で真田 信繁 (幸村)を演じる堺雅人さんが山南敬助を演じています。 それにしても堺さん、12年経ったとは思えない、今とほとんど変わりませんね。
その写真がこちら (HNKから拝借です)↓
3.八木家
八木邸は、一部が京都鶴屋「鶴壽庵」(かくじゅあん)という和菓子屋さんになっています。 天正年間から15代続いている家がらということですから、信長から秀吉の時代です。 ということは、430年になるということで、京都でいうと老舗ですね。 京都で老舗といえるのは、「禁門の変(蛤御門の変)」(1864年)が市内を巻き込んだ最後の大きな戦争で、大火災で廃に帰したお店もあるみたいですから、それが以前が老舗いえる境といわれています。 創業150年でも京都では老舗といわれないのですね。
さて、話を新選組に戻します。
当時、浪士隊から分かれて京に残った芹澤鴨、近藤勇、土方歳三、沖田総司、山南敬助、新見錦、原田佐之助、藤堂平助、野口健司、井上源三郎、平山五郎、平間重助、永倉新八の13名が、文久3年(1863年)3月16日八木家右門柱に、「松平肥後守御領新選組宿」という新しい表札を掲げ、ここに新選組が誕生しました。 隊士の人数が増えるにしたがって、賄いきれない隊士は前川邸や南部邸を宿舎としました。
ここ八木家では新選組の血なまぐさい歴史が刻まれています。
(暗殺された芹沢鴨)
同じ年の9月に新選組初代局長の芹沢鴨が、八木家の奥座敷で暗殺されています。 ドシャ降りの深夜、泥酔して寝ていたところを数人に襲われ、この時、愛人と他の隊士の平山五郎も首をはねられ死亡しています。 近藤勇は調査の結果、長州藩の仕業としましたが、新選組の内部犯行説が有力視されています。 芹沢が泥酔していたのは、新選組の隊士と酒を呑んでいたからであり、内部事情に詳しい者の犯行であると考えられ、ほんとうの実行犯は土方歳三のほか、沖田総司、山南敬助、原田左之助らではないかといわれています。 それにしても現存する刀傷の一部がその凄惨さを物語っています。
4.角屋(すみや)
角屋は、太閤秀吉の時代である天正17年(1589年)に創業され、京都・島原花街(現・京都市下京区)で営業していた揚屋(料亭・饗宴施設)です。 揚屋とは、江戸時代、客が、置屋から太夫、天神、花魁(おいらん)などの高級遊女を呼んで遊んだ店のことです。 明治に入ってお茶屋に編入されましたが、昭和60年(1985年)まで大広間を宴会に使用していたそうです。
1階は、一般公開されていますが、2階の見学には事前予約が必要です。 1階で料理を作り、2階の座敷でもてなしたことで、揚屋と呼ばれているそうですが、1階の松の間の写真がこちらです。
新選組の隊士の多くがここ角屋で遊興を楽しみました。 中でも初代局長芹沢鴨の「角屋での暴挙」の話は有名です。 酒乱であった芹沢は、店の対応に腹を立て乱暴狼藉を働きいまでもその時にできた刀傷が残っています。 また芹沢は、暗殺される直前にもここで酒宴を開いているのです。
とはいえ、角屋は揚屋の遺構としては唯一のものとして、現在は「角屋もてなしの文化美術館」として公開され、国の重用文化財に指定されています。
5.池田屋
時は、元治元年6月5日(1864年7月8日)、幕末の歴史でもよく知られる京都三条木屋町の旅館、池田屋で起こった新選組による襲撃事件。 池田屋に潜伏していた長州藩や土佐藩などの尊王攘夷派志士を京都守護職配下の新選組が治安維持として襲撃したものです。 長州藩と武器をやりとりする書簡が発見され、枡屋主人である古高俊太郎を土方歳三が拷問により自白させ、さらなる探索でその会合が池田屋か四国屋で行われるとの情報を掴みました。 自白内容は、「祇園祭の前の風の強い日を狙って御所に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮朝彦親王を幽閉し、一橋慶喜・松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へ動座させる(連れ去る)」というものでした。
亥の刻すぎ、当初踏み込んだのは近藤、沖田、永倉、藤堂の4名で、沖田は病で倒れ離脱、藤堂も油断もあって切り付けられ離脱、屋外にいた総勢16名が続いて突入し新選組に戦闘は有利に傾きました。 結果、9名討ち取り4名捕縛の戦果を上げたのです。 この戦闘で数名が逃走しましたが、のちに20名が捕縛されています。
それにしても跡地は、なんと一時パチンコ屋さんになっていました。 エグすぎです。
出典:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/c/c0/池田屋事件跡.jpg
現在では、2009年から居酒屋チェーンのチムニーが「海鮮茶屋 池田屋 はなの舞」を出しています。 パチンコ屋さんで遊ぶより居酒屋で飲む方がここの騒動で命を落とした志士たちも喜ぶかもしれませんね。
6.壬生寺
新選組の本拠が壬生村の八木家に置かれましたが、壬生寺の境内は新選組の兵法調練場に使われ、武芸などの訓練が行われたました。 その縁で境内には局長近藤勇の銅像や、新選組隊士の墓である壬生塚があります。 壬生塚は千体仏塔で、パゴダ様式の仏塔に約1000体の石仏を円錐形に安置したものです。 壬生寺は、地蔵菩薩を本尊とする律宗の大本山です。
出典:http://smartrip.jp/area/kyoto/3355.html
私が撮った写真より雰囲気出てますし面白かったのでこちらを載せておきます。
7.西本願寺
池田屋事件で有名となった新選組には多くの隊士が入隊してきました。 手狭になった八木邸から慶応元年(1865年)3月10日に第2の屯所となる西本願寺へ移ることになりました。
新撰組が屯所として使用したのは、西本願寺の北東にあった北集会所と太鼓楼でした。 新撰組は、空砲ではありましたが、境内で大砲の練習をしたり、実弾射撃をしていたそうです。 実弾射撃は非常に危険ですから、僧侶や参拝者からは迷惑がられていたようです。
また、男所帯ですから飯の片付けもままならず、とても不衛生だったようで、病気になる隊士が多かったみたいです。 診察をした松本良順は、残飯を食う豚の飼育を勧めたようですが、寺でさすがに殺生はできないということでそれこそ頓挫(とんざ)したそうです。
松本良順といえば、司馬遼太郎氏の『胡蝶の夢』にも登場しますが、近藤勇と親交があったようで戊辰戦争のときは幕府陸軍の軍医でした。 降伏後は一時投獄されましたが、山形有朋に請われ明治6年には41歳で大日本帝国陸軍軍医総監になっています。
8.三条河原
鳥羽・伏見の戦いにおいて敗れた新選組は、幕府軍艦で江戸に戻ります。 その後新選組局長、近藤勇は、大久保と偽名を使い行動しますが、新政府軍に捕縛され近藤勇であることを見破られ1868年(慶応4年)4月25日、板橋刑場(武蔵国板橋宿付近)で刑に処せられます。 首は京都へ運ばれ三条河原で晒し首となっています。 享年35(満33歳没)でした。 不思議にもその後の首の行方は誰も知りません。
ここ三条河原は、昔から多くの著名人が処刑や処刑後の晒し首が行われました。
石川五右衛門の釜茹での刑。
それに太閤秀吉の甥である豊臣秀次のさらし首です。 秀吉の甥である豊臣英次は妻子側室次女ともども謀反の疑いがかけられ、高野山で切腹したのち、三条河原へ秀次の首が運ばれました。 その首の前で妻子侍女など39名が処刑されたといいます。 「真田丸」では、人のいい関白として描かれていますが、秀吉は鶴松が没したあと一度は秀次に家督を相続させますが、寧々との間に実の子供である秀頼が生まれますと、邪魔になったのでしょう。 高野山へ蟄居となり、後顧の憂いを無くすために謀反の疑いをかけられて、切腹まで追い詰められました。
皮肉にも秀吉の忠臣であった石田三成も関ヶ原の戦いに敗れたのち、捕らえられ六条河原で斬首刑となり、三条河原で晒し首にされました。
個人的にはここ三条大橋のたもとが好きで、日の沈む夕暮れ時に鴨川の潺(せせらぎ)を川べりで聞くのが楽しみでした。 凄惨な光景を想像するより、歴史上において様々な想いで散っていった人々の経緯を知ってあげることで少しでも供養になればという気持ちだけです。
9.ルートのまとめ
西院 ⇒ 日本写真印刷
⇒ 1.新徳禅寺 ⇒ 2.旧前川邸 ⇒ 3.八木家 ⇒ 6.壬生寺
⇒ 4.角屋(すみや) ⇒ 7.西本願寺
⇒ 8.三条河原 ⇒ 5.池田屋
そして最後は、御池にある馴染みの酒処「両川(りょうせん)」へ直行です。 これは余計ですね。 でもここは、こだわりの日本酒生を全国から取り寄せています。 そして日本酒にあったアテやお品がとても素晴らしいんですね。 さすがダシ文化の京都、まずはお通しの汁物なんです。 大通りから一本上の通りにひっそりと構えたお店ですが、最近では訪れる外人さんも多いと聞いています。 やはり口コミですね。
それにしても、京都の街をふらりと歩くだけで、都であったかつての様々な出来事に触れることができます。 次は、洛西の松尾大社から洛南の京都伏見を尋ねてお酒にまつわる話をしてみたいと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
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