大きな地震災害が熊本地方を襲いました。

まだまだ多くの人々が避難し、復旧のメドが立っていません。

私の住む福岡市は余震を感じるものの生活は普段通りです。 たった百数十キロしか離れていないところで、避難を余儀なくされている人たちが十数万人いるという現実。 これをどう受け止めたらいいのでしょう。

私たちに出来ることは、わずかです。 当事者でない私たちは、なんとか頑張って欲しい、そう祈ることだけかもしれません。 同情するばかりでは前に進めません、まずは被災者の方々の生活が落ち着くことを最優先に、できることを協力しながら、元気を送り続けていくしかありません。

 

生死との遭遇

今回のように生死にかかわるような場面に遭遇したとき、心のありようはどうなのだろう、と考えずにはいられませんでした。

人はまた、ケガや病気で大きく心の状況が変わることもあります。

ましてや平穏な生活の中でも、対人関係や仕事上のストレス、金銭的な問題や環境の変化などから、心は大きく負の道へ転がっていくことがあります。

 

マイナスの感情が心を弱くする

それは、「心配」や「不安」、「怖れ」や「恐怖」、「虚しさ」と「孤独」、「怠惰」と「依存」、「怒り」と「暴力」、そして「諦め」と「絶望」です。

 

その根底には、

「この状況はどこまで続くんだろう?」

「誰か助けてくれるだろうか?」

「自分にどのくらい力が残っているだろうか?」

「これから良いことに恵まれるだろうか?」

という疑問が常に湧いてくるからです。

 

それに対して、

「答えが出ない」

「答えが見つからない」

という状況が、ますます心を蝕んでいくんですね。

 

では、健康な状態とはどういうことでしょう?

 

「健康とは?」に「霊的に良好」が加わる

「健康」とは何か、という問いに対して、世界保健機構(WHO)憲章の前文が有名ですが、

1998年に新しい提案をしています。 それがこれです。

 

健康とは身体的精神的霊的社会的に完全に良好な動的状態であり、たんに病気あるいは虚弱でないことではない。

『Health is a dynamic state of complete physical, mental, spiritual and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity.』

 

スピリテュアル(霊的)も健康の条件に!

WHOが健康の条件として精神的なものばかりでなく、霊的(スピリテュアル)なものまで含めて考えようとの動きを見せたことは、まさに画期的な出来事と言わなければなりません。 これは現在の心身相関医学が重要視している心・精神のレベルを、さらに一歩進める動きと考えられるからです。

霊性(spirituality)は人間の尊厳の確保や生活の質を考えるために必要で本質的なものであるとの意見が出されましたが、その霊的なもの、霊性なるものが、具体的にどのようなものであるのかについて、WHOでは未だ明確な説明は示されていません。

スピリテュアルなものといっても、
「なんかまだよくわかんないけど、霊的なものが人の心や精神には大きく影響しているよ
ということを認めたわけです。

精神的なことでしたら、その人の外見や行動、言動や習性によってある程度判断できるかもしれませんが、その奥に隠された「霊性」というものについては、凡人の私たちにはまったく見えません。

しかし、厳然とその世界はあるのだというのです。 WHOが認めたのですよ。

 

この時点で「何か胡散臭いな」と思う人も多くいます。

「そんなこと言うのは、新興宗教か高い壺なんか売る詐欺目的じゃないの」と煙たがるんですね。

しかし、この次の問いにあなたは答えられますか?

 

人がスピリテュアルを考えるとき

医療や看護でスピリテュアルが語られるのは、特に死が迫っている患者と向き合う現場です。 また。今回のような自然災害現場に遭遇した場合も考えさせられます。

 

どうして患者や、被災者はスピリテュアルな疑問を投げかけるのでしょう?

 

迫りゆく死の中で、ゆっくりと自分の生涯を振り返り、「ああ、自分の人生は満ち足りた良い人生だった」と納得できるならいいです。

しかし、多くの人が、

「ああ、私の人生とはいったい何だったのだろう。 このまま消え去ってしまうことをどう理解したらいいんだ。」

と思うわけです。

これは、メンタルヘルス、つまり「心」の問題でしょうか。

どうも「こころの痛み」という次元では収まらない、なにか奥深い問いがあると思いませんか。

 

これは、宗教とは一線を画し、「スピリチュアルケア」といわれるものです。 特に最近の日本では、無宗教の人が多くなってきました。 昔は、宗教が死について教え、考えさせる文化的システムであったのですが、無宗教では究極の世界があることを信じるよりどころがなくなってきているんです。

高齢化社会を迎え、これからは自宅で死を迎えようとする人も多くなるかもしれません。

災害に遭遇した人たちが「自分の存在」というものを深く考えるようになるかもしれません。

 

こころの痛みは「生きたい」の裏返し

スピリチュアルは死生観を伴う考え方です。 この世があればあの世もある。 肉体は滅んでも魂は生き続ける。 目には見えないが霊的世界との交流はある。 これを輪廻転生まで結びつけると、ますます宗教観が出てきそうですが、否定できる事実も持ち合わせていないという現実があります。

メンタルヘルス(精神的健康)で扱われるときに、「消えてしまいたい。死んだほうがまし」という相談があったとしましょう。 しかし、これは本当に「死にたい」という叫びというより、「本当は生きたい」、「生きている実感が欲しい」という声だと思うんですね。

つまり、「生きたい」、だけど「どうしたらいいかわからない」という「こころの痛み」なんです。

 

|スピリテュアルは「生きる意味」を考えさせてくれる

さきほどのスピリチュアルな言動と比べてみましょう。

 

生死に向き合う人は、

「ああ、私の人生とはいったいなんだったのだろう。 このまま消え去ってしまうことをどう理解したらいいんだ。」

 

こころの痛みと向き合う人は、

「ああ、私の人生とはいったいなんなのだろう。 このまま消え去りたいと思ってしまう自分をどう理解したらいいんだ。」

となるんです。

 

この違いわかりますか?

スピリテュアルは、「生きる意味」を教えてくれるんです。

 

メンタルヘルス、精神的な健康を保つためには、「こころのあり方」を学ぶことで、生きることへ向かって進んでいくことを指します。

スピリテュアル、霊的な健康を保つためには、「今、この現実を超える世界の存在を認め、その力を受け入れる」ことを指すのだと思います。

 

このブログのテーマにある「生きるヒント」、これはどちらかというと「こころのあり方」について考えていこうという内容です。

熊本地震に際して、以前から興味があったこの「スピリチュアル」な世界をテーマに加えて、「自然」と「人間」の関わり合いをもっと考えていきたいと思います。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございます。